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50歳の節目を過ぎてもう3年。残りの人生何年かわからないけれど、 このままお迎えまでずるずると生きていくのは何かさみしい。こんな思いをしていた一昨年の秋、
そのころたまたま友人を介して「東海道五十三次(photo)」の「セイコー社製万歩計photo)」をちょうだいした。 歩いた分だけ江戸から京都まで東海道の500kmを画面上で進んでいくようになっている。これだこれがいい。
東海道を実際に歩いてみよう。自分の体を使って、この歳になってもまだまだ新たな道を切り開いていける力があることを、
試してみよう。春になったらいくぞ!!以来会うひとごとに、その決意を告げてきました。
しかし誰も本気にせず、まともな話とは受け止めてくれませんでした。当然でしょう、
私自身がまだ心の奥底で本当に出来るかなと思っていたのですから。 でも「有言実行」「行くしかない」立場に追い込むために、たくさんの人達に言ってあるきました。
平成11年3月ここ札幌はまだ深い雪の中ですが、東海道方面は、 すでに春それでも「よし、本当に行くか」と、東京までの航空券を手配したのは、
わずか出発の一週間前、道中背負って歩くリュックなどを買ったのは2日前のことでした。
自分でもまだ半信半疑だったのです。でも東京での前泊のおりに従兄弟たちが大勢集まって
壮行会を開いてくれました。「覚悟は決まった。行くしかない」いよいよ出立!
平成11年3月27日、お江戸は日本橋(photo)、曇り「日本道路元標(photo)」には「京都まで503km」とあります。 朝8時に従兄弟の長浜さんに、京都の三条大橋にてまた会おうとの言葉に見送られ、まず右足で第一歩70cm前進、
そして左足これも70cm。まわりは日本を代表する大企業がずらり、そこを零細企業のオヤジが、半ズボン、
Tシャツ姿にリュックを背負い杖を持って(この辺ではプライドもありまだつかない)
一歩一歩とみずからへの可能性への挑戦開始です。大森あたりで早くも杖の世話になる。
そこまでは道端ベンチ休憩のほか喫茶店3軒、はずかしながら当時の私の体重は97kg(現在87kg)
それに背中の荷物が15kg。川崎で不要なものを捨てて8kgにする。ゴルフ場でボッコ一本持って歩くのとは全く訳が違った。
早くも弱気の虫が、そこへ高校時代の早川君(東京)より携帯電話。「今晩陣中見舞いに行く」とのこと、
ありがたい。気を取り直してなんとか川崎へたどり着いたのが、午後3時前進距離わずか18km、
ここからは羽田空港は近い、帰ろうかな、悪い思いが頭よぎる。先が思いやられる。
4日目、大磯から小田原、箱根湯本へ。後で思えばこのころが疲労のピーク、足はバンバン、
豆は所かまわず、皮膚の弱い所、弱い所に火山のマグマのごとく噴出してくる。
そんな時、後から「おはよう」の声。三島市在住の柴田正夫さん。定年退職後、3日おきの夜勤の合間をぬって、 こまぎれに東海道五十三次の踏破をめざしているとのこと私より9歳上の62歳ですが、素晴らしい歩きをしています。
その柴田さんから、ここでたいへんいいアドバイスをもらいました。ゆっくり歩きすぎるといつまでも足の張りはとれないよ。
心拍数が120位になるように歩くといいよ、そして胸を張って大きく手を振って、かかとから前へ押し出すようにと、
残念ながら私は生来の猫背、でも心拍数120の教えはたいへん効果がありました。それからは汗がびっしょりになるほど、
ぐいぐい歩くようにしてみたところ、本当に足の張りが不思議なほどに消えていたのです。
柴田さんの教えがあったからこそ京都までたどりつけたと確信しております。改めて柴田さんありがとうございます。
難関の箱根越へは終日の大雨、頂上付近にては雪、ゴアテックス製のカッパも、 ゴム製のポンチョも役にたたず、全身ベショ濡れ、三島までの予定であったが元箱根泊り、さっぱり進まない!!
後でわかったのだが、雨には傘が一番である。
翌日はゆるやかな峠を下り三島へ、ゴルフ場の看板が目につく、我友人も今頃は ヘタなゴルフに興じているのではと思っていると、柴田さんから電話があり、静岡県内の旧東海道を同行しましょうと
ありがたいお誘いである。道中史跡の説明を歴史の話をしながらわかりやすくしてくれる。実に楽しい歩きとなった。
しかも三島では後で食べた浜名湖の「うなぎ」より私は旨いと思ったのをご馳走になりひたすら恐縮するばかりである。
心拍数「120」の教えに従って、30数kも進むことができた。「原」泊り。柴田さんには次の日も同行していただいた。
「蒲原」附近にて昼に食べた「桜エビ」のかき揚と「しらす」の生は、忘れられない味であった。 こうしてその地の本当のおいしいものを食べられるのも、歩いて旅をして人との出会いがあったからこそなんだと、
心から「来てよかったー」と思った。
静岡では、また早川君が高校時代の友人である高松さんと、つれだって激励に来てくれた。 嬉しかった。こんな遠方迄、何としても京都まで行かねば、10日目島田から金谷、日坂、掛川、袋井への途中
息子の賢一郎から電話。「何してんだよ、そんな所ボサボサ歩いていたら車にはねられて死んでしまうよ、
すぐ帰っておいでよ!!」という。車の仕事をしているのでこのあたりの道路事情をよく知っているので心配なのだという。
こちらは、昔、昔には大名行列も通った旧東海道を歩いているから「大丈夫だよ」と安心させる。
思えば、この息子には粗末な育て方しかしてこれなかった。今となっては、申し訳なく思うばかりである。
その分、その娘、当時2歳半の孫である、笑美子に「今回の事を是非、成功させて何かの教えを残して
あげられることになるといいなー」と考えました。さて、どうやら富士山には縁がなく、
ついに姿を見ることができぬまま愛知県を通過、三重県へ。ここへは札幌の友人お好み焼き「風月」の二神社長が、 わざわざ応援に来てくれた。関にて合流その夜は痛飲、次の日は鈴鹿峠を越え水口まで一緒に歩いてくれた。 ありがたや、ありがたやゴールはもうすぐである。
さあ、18泊19日をかけた鈴木君の東海道五十三次も、最終日は大津より山科を経て京都三条大橋まで
10数k残すのみ。楽しかったこと、最初に苦しんだこと。出会った多くの人、電話で励ましてくれた沢山の人、
わざわざ来てくれた人、宿泊の手配にはたいへんお世話になった我クラブの山崎大祐L…
皆様からお力添えをいただいたからこそ、この身は今ここにあると感謝しつつゴールへ向かいました。
平成11年 4月14日午前11時。京都三条大橋上には、従兄弟の長浜さん、我クラブの高野L(photo)が札幌からわざわざ駆けつけてくれていた。 最後まで本当に本当にありがとうござました。「ヤッター、バンザーイ」数十年ぶりの感動を味わった。
笑美子に最高の「プレゼント」ができた。歩くことが生きていることの原点であること、そして歩くことの楽しさ、
素晴らしさを発見できた。そして何よりも夢をもち、目標をもち、意思をもって行動すれば年齢に関係なく
必ず実現できるということを身をもって確信することができた。 今回のことがこれからの私の人生に多少なりとも糧となり、子供の踏み台や、孫の肥やしにでもなれれば、
こんな大きな喜びは他にはないと思うのであります。
オシマイ!!
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